前編)目に見えるものは偽
四月一日は嘘が許される日だよ!
近年ネット社会で、段々あんな企業こんな企業も一種の宣伝イベントと捉える様になったからか、結構に真面目な悪ふざけや笑えるネタを皆で愉しむ風潮になって来てますね。
ロードラもツイッターで紫さんが一日紫助さんに戻ってるとかそう言うくすっと…いやイラっと仕込みでもするかなと思ってたらまさかの。
ガチマジなイベントだったよ。
……え。えいぷりるふーるってあれですよね、ばかなことやってるなーあはははーってひですよね。
ちょっとふふっとわらってしんせいかつへのきんちょうかんをやわらげてくれるてきな…、
ロードラならでは、としか言い様がないですねこれ。設定をうまい事使った、月虹書館とか言う同人誌即売会。
丸ごと巫山戯たネタにも出来ただろうに、まさかのどシリアスですよ。
結論から言いますと…、ネタなのかマジなのか解らない、と言う感じではありました。
いやストーリーは実に良い角度のパンチでプレイヤーに容赦なく襲いかかっては来てますが、技名が…、もとい記念ユニット名が「家内円満」「指揮士」などちょっと元ネタキャラを文字った駄洒落臭い感漂っているのと、桜レイアもびっくりなどピンクカラーなのとで、マジで泣かせに来ているのか、ネタと思って結構と思っているのか、ジュエル兄さんにセンスが無さすぎるだけなのか……、泣けるのとちょっと待って感とが半端に混在しちゃっていて、違う意味で後味が悶々と。
あと、恐れていたバージョン違い同キャラ量産姿勢みたいなのがJASONイベントやこれを機に許されそうで怖いですね…。季節イベント毎に水増しするのやめて下さいよ…?
まあ今回は同キャラのお着替えバージョン違いと言うより、同キャラの同人誌みたいな別存在として受け取ればいいかなとは思いましたが、そんならせめて性能まるきり同じにするのやめてくれー…。
まあ「存在した人」を模倣しただけだから、「その人」が「その人」で在る根底は覆らない=偽書が幾ら生まれた所で「その人」たちは変わらず在る(在った)、と言う意味でもあるのかも知れませんが。
*
ロードラは鬱ゲーとよく言われる通り、キャラクターの持つストーリーの八割ぐらいは何かしら救われない結末や後味の悪い終わり方で、ストーリーラインを読みプレイするイベントクエストでもそんな鬱展開、嫌展開、胸糞展開がお家芸である事が多めです。…いや半々くらい?
ドラゴンと戦う王から、ほぼ一般人の戦士まで。巨悪じみた謎の存在から、神々まで。彼ら彼女らは何かしらの悲劇や業を背負い、辛い過去から明るい未来に向けた途を歩める者も居れば、仲間の為に命を落とす者、復讐や憎悪に取り憑かれた者、運命に弄ばれ数奇な人生を辿る者も居て、兎に角一筋縄ではいかない「密度」を持っています。
彼ら彼女らの、人生と言う物語の一部を書き出したに過ぎないたったの数行のテキスト。然しそこに込められた「物語」が、悲劇であれど喜劇であれど、ロードラの魅力であると思っています。
ぶっちゃけプレイヤースキルなども必要としないし、難易度が高い訳でもない。強い助っ人が居れば初心者であってもイベクエを楽しめる程度だし、ガチャ限定のキャラクターがいないと無理、このキャラクターがいないと無理と言うクエストは基本的には存在していません。(稀に発生する単発の高難度系は除くけど)
躊躇を憶えたり億劫になる困難さが取り敢えず無い以上、ゲーム性とかよりも、ストーリー面に痛烈に惹かれてロードラを「読む」プレイを続けている方はきっと多いと思います。
今回の「優しい嘘」の仕掛け主――四月の愚者であるジュエル兄さんは、そんな彼らの悲劇を書き換え、物語の中だけでも「嘘」の幸福を彼らに得て貰いたいと思い、四つとひとつの愚かな物語を描いた。
仲間を護って命を落としたアナスタシアは、戦うこともなく朱の楽団でラビたちと音楽を紡ぎ。
騎士王を護り犠牲になったエンゼリカは、彼の妃となり幸福に暮らし。
幼馴染みと再会したエドガーは、彼女と結ばれ子供に恵まれてささやかで幸せな生活を送り。
帰り着けず散ったゼロシキは、料理上手のあやめと幸福に暮らし。
誰もが「平和な世界」で「永く、満ちたる刻を生きた」。そんな幸せな幸せな物語。
偽りと誰もが知る、有り得なかった可能性の物語。
「書」の中で繰り返される悲劇の繰り返し、そのページを、彼らの物語を、人生を、乱暴に引き千切って書き換える傲慢の物語。
彼らの物語は確かにひとつの悲劇であり、満ちた幸福であるとは描かれてはいないけれど。
でもその死は、物語は、生きる幸せや生きる意味が見出せぬものと悲観されなければならないものなのでしょうか。
少なくともジュエル兄さんは「嘘でも良いから」幸福を、と願って筆を執った様です。
彼らの物語は悲劇だけど。幸福ではなかった、生きていて碌な事が無かった。そんな事は語られていないし、そんな風にしか読み解けない人はいないと思います。
苦難の末に得たものが、仮令絵に描いた様な「永く、満ちたる刻を生き」る幸福の肖像ではないからと言って、彼らの結末を不幸なものだとは思いません。
いえ、寧ろそう「与えられた」物語だからこそ、行間に救いの可能性や、ほんの僅かの納得や折り合いの意味を求めて、人は彼らの「書」を、物語を読むんじゃないでしょうか。
ロードラが鬱ストーリーの山であるのに、そこに意味や考察を産み出させる力があるのは、沢山のファン(読者でプレイヤー)にそうさせる力があるのは、そこに必ずしも額面通りの「救いようのない不幸です」と書かれたエンドマークが刻まれていないからこそだと思います。
悪く言えば難解で玉虫色の書籍。度々わたしも、納得や理解の有無やはっきりしない設定や蒔きすぎな伏線の種や風呂敷にうんざりしていると書いては来ていますが、それは彼らの物語を「知りたい」からでもあります。知りたい、と言うよりは、願いたい、かも知れません。
「彼らは戦いの末に死んだ」そう書かれた物語の最期のページは、破り取られて「彼らは幸せに永く、満ちたる刻を生きた」と書き換えたページを追加されて良いものなのでしょうか。書き換えねばそこに、行間に、物語に、彼らの台詞に、不幸な人生しか詰まっていないと見えて仕舞うものなのでしょうか…?
所詮人間は娯楽を求めるイキモノであり、書籍は娯楽です。他人の日記とて読めば娯楽です。
そして、より不幸なものを見て安堵や悲しさを覚える事をこそ娯楽と感じ取る人は多いです。悲しい話を読んで泣く。自分はこうじゃなくてよかった、或いは、単純に感情移入して。何れにせよ、それは悲しみを娯楽として飲み干すからこそのものです。人の痛みを感じて己が痛みを憶えるのは、優しさであると同時に他人事であるからでもあるのです。
テンプレート通りの大衆娯楽は最早古いとみなされる程に、世界に「物語」は、数奇な人の人生も創作も溢れ過ぎました。
同じ世界を救う物語ならば、勧善懲悪の単純明快なヒーローものよりも、悲劇を背景に持つダークヒーローの方が持て囃される。或いは懊悩しヒーローになるまでの苦悩の物語を。
故に、より悲劇を。奇を衒った数奇な物語を。人は安易に求めます。
それは単純な「幸福」ではないからこそ得たいと思うのです。己の感性で飲み干す娯楽として。
結末は幸福でも不幸でも構わない。そこに至るまでの過程がどれだけ「面白い」か。味を愉しむのは飲み込むその寸前までしか出来ない、最上の贅沢なのです。
だから、わたしはロードラの物語を読んで、そこに何かしらの「物語」や結末を想像しています。
彼らの人生は、ただ不幸で悲劇で救いようのないものだと思わないからこそ。
「永く、満ちたる刻を生きた」。そんな、彼らの悲劇や苦悩の人生の物語を、「めでたしめでたし」で単純に終わらせては仕舞いたくない。
結末が不幸と呼べるものであったとしても。再会出来ずとも、帰り着けずとも、彼らは生きて戦っていた。
………まあ亡霊の様に、やられ役乙的な不幸で悲劇な方々も居るっちゃあ居るんですが。
ローザ様に代表される様に、「書」は歴史として改竄されて仕舞うものであるとは、ロードラ世界では既に明かになっている通りのものです。(でも完全にローザ様の人生全てに関わった人間の改竄までは出来ないと言う事で、コロナやキルトから見た「真実」も残される訳ですが)
彼らの人生は、偽りの幸せで安易に書き換えられて仕舞うからこそ。それが酷い傲慢で冒涜であるからこそ、今回のジュエル兄さんは、皮肉も込めて「愚者」と題されているのではないかと思いました。
何と言うか、ロードラならではの、「偽」で、「物語」で出来た仕掛けだなと脱帽するのと同時に、彼らひとりひとりの物語は尊いものなのだと改めて思わされたと言いますか。
あとですね、ラビやエドガーと言った古い物語を今回ついでに読み直してみましたが、やっぱり最近の無駄に難解で気取った言い回しより、昔の、シンプルで伝わり易くちゃんと「彼ら」を語っている物語はいいなあと思ったり。
*
長くなった上脱線したので、次回白紙のジョエル考察に続く。
近年ネット社会で、段々あんな企業こんな企業も一種の宣伝イベントと捉える様になったからか、結構に真面目な悪ふざけや笑えるネタを皆で愉しむ風潮になって来てますね。
ロードラもツイッターで紫さんが一日紫助さんに戻ってるとかそう言うくすっと…いやイラっと仕込みでもするかなと思ってたらまさかの。
ガチマジなイベントだったよ。
……え。えいぷりるふーるってあれですよね、ばかなことやってるなーあはははーってひですよね。
ちょっとふふっとわらってしんせいかつへのきんちょうかんをやわらげてくれるてきな…、
ロードラならでは、としか言い様がないですねこれ。設定をうまい事使った、月虹書館とか言う同人誌即売会。
丸ごと巫山戯たネタにも出来ただろうに、まさかのどシリアスですよ。
結論から言いますと…、ネタなのかマジなのか解らない、と言う感じではありました。
いやストーリーは実に良い角度のパンチでプレイヤーに容赦なく襲いかかっては来てますが、技名が…、もとい記念ユニット名が「家内円満」「指揮士」などちょっと元ネタキャラを文字った駄洒落臭い感漂っているのと、桜レイアもびっくりなどピンクカラーなのとで、マジで泣かせに来ているのか、ネタと思って結構と思っているのか、ジュエル兄さんにセンスが無さすぎるだけなのか……、泣けるのとちょっと待って感とが半端に混在しちゃっていて、違う意味で後味が悶々と。
あと、恐れていたバージョン違い同キャラ量産姿勢みたいなのがJASONイベントやこれを機に許されそうで怖いですね…。季節イベント毎に水増しするのやめて下さいよ…?
まあ今回は同キャラのお着替えバージョン違いと言うより、同キャラの同人誌みたいな別存在として受け取ればいいかなとは思いましたが、そんならせめて性能まるきり同じにするのやめてくれー…。
まあ「存在した人」を模倣しただけだから、「その人」が「その人」で在る根底は覆らない=偽書が幾ら生まれた所で「その人」たちは変わらず在る(在った)、と言う意味でもあるのかも知れませんが。
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ロードラは鬱ゲーとよく言われる通り、キャラクターの持つストーリーの八割ぐらいは何かしら救われない結末や後味の悪い終わり方で、ストーリーラインを読みプレイするイベントクエストでもそんな鬱展開、嫌展開、胸糞展開がお家芸である事が多めです。…いや半々くらい?
ドラゴンと戦う王から、ほぼ一般人の戦士まで。巨悪じみた謎の存在から、神々まで。彼ら彼女らは何かしらの悲劇や業を背負い、辛い過去から明るい未来に向けた途を歩める者も居れば、仲間の為に命を落とす者、復讐や憎悪に取り憑かれた者、運命に弄ばれ数奇な人生を辿る者も居て、兎に角一筋縄ではいかない「密度」を持っています。
彼ら彼女らの、人生と言う物語の一部を書き出したに過ぎないたったの数行のテキスト。然しそこに込められた「物語」が、悲劇であれど喜劇であれど、ロードラの魅力であると思っています。
ぶっちゃけプレイヤースキルなども必要としないし、難易度が高い訳でもない。強い助っ人が居れば初心者であってもイベクエを楽しめる程度だし、ガチャ限定のキャラクターがいないと無理、このキャラクターがいないと無理と言うクエストは基本的には存在していません。(稀に発生する単発の高難度系は除くけど)
躊躇を憶えたり億劫になる困難さが取り敢えず無い以上、ゲーム性とかよりも、ストーリー面に痛烈に惹かれてロードラを「読む」プレイを続けている方はきっと多いと思います。
今回の「優しい嘘」の仕掛け主――四月の愚者であるジュエル兄さんは、そんな彼らの悲劇を書き換え、物語の中だけでも「嘘」の幸福を彼らに得て貰いたいと思い、四つとひとつの愚かな物語を描いた。
仲間を護って命を落としたアナスタシアは、戦うこともなく朱の楽団でラビたちと音楽を紡ぎ。
騎士王を護り犠牲になったエンゼリカは、彼の妃となり幸福に暮らし。
幼馴染みと再会したエドガーは、彼女と結ばれ子供に恵まれてささやかで幸せな生活を送り。
帰り着けず散ったゼロシキは、料理上手のあやめと幸福に暮らし。
誰もが「平和な世界」で「永く、満ちたる刻を生きた」。そんな幸せな幸せな物語。
偽りと誰もが知る、有り得なかった可能性の物語。
「書」の中で繰り返される悲劇の繰り返し、そのページを、彼らの物語を、人生を、乱暴に引き千切って書き換える傲慢の物語。
彼らの物語は確かにひとつの悲劇であり、満ちた幸福であるとは描かれてはいないけれど。
でもその死は、物語は、生きる幸せや生きる意味が見出せぬものと悲観されなければならないものなのでしょうか。
少なくともジュエル兄さんは「嘘でも良いから」幸福を、と願って筆を執った様です。
彼らの物語は悲劇だけど。幸福ではなかった、生きていて碌な事が無かった。そんな事は語られていないし、そんな風にしか読み解けない人はいないと思います。
苦難の末に得たものが、仮令絵に描いた様な「永く、満ちたる刻を生き」る幸福の肖像ではないからと言って、彼らの結末を不幸なものだとは思いません。
いえ、寧ろそう「与えられた」物語だからこそ、行間に救いの可能性や、ほんの僅かの納得や折り合いの意味を求めて、人は彼らの「書」を、物語を読むんじゃないでしょうか。
ロードラが鬱ストーリーの山であるのに、そこに意味や考察を産み出させる力があるのは、沢山のファン(読者でプレイヤー)にそうさせる力があるのは、そこに必ずしも額面通りの「救いようのない不幸です」と書かれたエンドマークが刻まれていないからこそだと思います。
悪く言えば難解で玉虫色の書籍。度々わたしも、納得や理解の有無やはっきりしない設定や蒔きすぎな伏線の種や風呂敷にうんざりしていると書いては来ていますが、それは彼らの物語を「知りたい」からでもあります。知りたい、と言うよりは、願いたい、かも知れません。
「彼らは戦いの末に死んだ」そう書かれた物語の最期のページは、破り取られて「彼らは幸せに永く、満ちたる刻を生きた」と書き換えたページを追加されて良いものなのでしょうか。書き換えねばそこに、行間に、物語に、彼らの台詞に、不幸な人生しか詰まっていないと見えて仕舞うものなのでしょうか…?
所詮人間は娯楽を求めるイキモノであり、書籍は娯楽です。他人の日記とて読めば娯楽です。
そして、より不幸なものを見て安堵や悲しさを覚える事をこそ娯楽と感じ取る人は多いです。悲しい話を読んで泣く。自分はこうじゃなくてよかった、或いは、単純に感情移入して。何れにせよ、それは悲しみを娯楽として飲み干すからこそのものです。人の痛みを感じて己が痛みを憶えるのは、優しさであると同時に他人事であるからでもあるのです。
テンプレート通りの大衆娯楽は最早古いとみなされる程に、世界に「物語」は、数奇な人の人生も創作も溢れ過ぎました。
同じ世界を救う物語ならば、勧善懲悪の単純明快なヒーローものよりも、悲劇を背景に持つダークヒーローの方が持て囃される。或いは懊悩しヒーローになるまでの苦悩の物語を。
故に、より悲劇を。奇を衒った数奇な物語を。人は安易に求めます。
それは単純な「幸福」ではないからこそ得たいと思うのです。己の感性で飲み干す娯楽として。
結末は幸福でも不幸でも構わない。そこに至るまでの過程がどれだけ「面白い」か。味を愉しむのは飲み込むその寸前までしか出来ない、最上の贅沢なのです。
だから、わたしはロードラの物語を読んで、そこに何かしらの「物語」や結末を想像しています。
彼らの人生は、ただ不幸で悲劇で救いようのないものだと思わないからこそ。
「永く、満ちたる刻を生きた」。そんな、彼らの悲劇や苦悩の人生の物語を、「めでたしめでたし」で単純に終わらせては仕舞いたくない。
結末が不幸と呼べるものであったとしても。再会出来ずとも、帰り着けずとも、彼らは生きて戦っていた。
………まあ亡霊の様に、やられ役乙的な不幸で悲劇な方々も居るっちゃあ居るんですが。
ローザ様に代表される様に、「書」は歴史として改竄されて仕舞うものであるとは、ロードラ世界では既に明かになっている通りのものです。(でも完全にローザ様の人生全てに関わった人間の改竄までは出来ないと言う事で、コロナやキルトから見た「真実」も残される訳ですが)
彼らの人生は、偽りの幸せで安易に書き換えられて仕舞うからこそ。それが酷い傲慢で冒涜であるからこそ、今回のジュエル兄さんは、皮肉も込めて「愚者」と題されているのではないかと思いました。
何と言うか、ロードラならではの、「偽」で、「物語」で出来た仕掛けだなと脱帽するのと同時に、彼らひとりひとりの物語は尊いものなのだと改めて思わされたと言いますか。
あとですね、ラビやエドガーと言った古い物語を今回ついでに読み直してみましたが、やっぱり最近の無駄に難解で気取った言い回しより、昔の、シンプルで伝わり易くちゃんと「彼ら」を語っている物語はいいなあと思ったり。
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長くなった上脱線したので、次回白紙のジョエル考察に続く。