真っ赤なうそ
四月の愚者。去年、グロ耐性鬱耐性のあるロードラー達を今までに無いハッピーエンドでハートフルボッコに追い遣ったあのイベントが今年もやって参りました。
4月1日の13時開始とか言う微妙な感じがなんか色々事情が滲み出そうな感。
今回の愚者は第二集。然しなんと本人不在。前回はジュエル兄さんが月虹書館で二次創作に励んでいましたが、今回は月虹書館と思われる場所は荒れ果て、多くの書が滅茶苦茶になっている様子。
「そこにかつての主の姿は無く
書は散乱し、頁は欠け、文字は塗りつぶされている」
そして語られる「主」らしき存在の台詞。
「存在すら虚構。ならばせめてこの手で葬り、二度と見出される事なきよう」
「価値無き、救いの手。愚者の足掻き。偽る朱の物語。その羅列、全ての虚構」
去年の「四月の愚者」を選択すると、ATSのタイトルが欠け、去年は無かった(よね?)語りが入ります。
これらの内容、去年の初配信時のイベントバナーが今年は少し掠れていて、更に第二集はもっと掠れている事から、月虹書館は最早滅びかけている、と言う事なのだと思われます。
「せめてこの手で葬り」と言う台詞を見る限り、ジュエル兄さんが自らを「愚者」と称し、朱の物語たちを――幸せな虚構の物語たちを滅ぼして仕舞おうとしている様に見えます。
(「書」を滅ぼして回る=エウレカ様の仕業、と言う可能性も棄てきれませんが…)
「本の中では偽りの幸福を生きて貰いたい」そう言っていた彼に一体どう言う変化が起きたのかは残念ながら知る事は出来ません。
ただ一つ確かなのは、今年新たに書棚に加わった「幸福な物語」の主人公たちだけではなく、去年「わたしたち」の入手した「幸福な物語」の主人公たちの書もまた、掠れ消えて仕舞いそうになっていると言う事。
バナーの掠れ、幸福な物語たちの掠れ。荒れ果てた月虹書館。偽りの書を葬ろうとする者。
これらの演出から考えてみたのが、これは「幸福な物語」の偽であると同時に、プレイヤーたちへのメッセージなのではないか、と言うのがわたしの思った結論です。
偽りの書たちが消える事=誰かに消される、或いは「わたしたち」の記憶から消えて仕舞う事。
彼らは偽りの物語の存在。著者である「者」がその消失を望めば、「わたしたち」の書棚、箱の中でさえも例外ではなく、「消えて」仕舞う。
ジグムントのシグムントと言う名への訂正など、誤字脱字の修正でさえも、ある意味では書の改竄。
「わたしたち」の手にあるものは、「著者」たちの心一つで簡単に消えて仕舞うものでしかない。書き換えられるも消えるも容易なものでしかないのだと言う現実。
噛み砕いて言えば、サーバに書き込まれたデータのひとつ。ロードラのサービスが終了して仕舞えば、データが壊れて仕舞えば、「この世界」でさえも瞬時にして消えて仕舞う不確かなものであると言う事。
今回の「掠れた愚者の物語」の表現は、そんな彼らを、彼らの物語を、ロードラと言うゲーム内の「書」だけの存在としてではなく、「わたしたち」プレイヤーや、誰かの、皆の心に留めて欲しいと言う願いの表現の一つなのではないでしょうか。
容易く「物語」が消える。荒れ果て、滅びる世界の具現。そんな、(創作を行っていた月虹書館の)愚者の滅びと言う「嘘」。
四月一日と言う「嘘」を通して、何かを「著者」たちは伝えて来たのかも知れません。
彼らを活かす事が出来るのは、「わたしたち」プレイヤーなのだと言う事実。
ロードラのプレイヤーさんたちが創作などを続ける事、キャラやストーリーを愛し続けていく事こそ「著者」たちの望みでしょう。
………もっと生臭く言えば、「彼らを活かすも殺すも皆さんの課金と愛次第」と言う直球なメッセージなのかも知れませんね。…なんて。
*
「せめてこの手で」
それは果たして「誰」の手なのでしょうか…?
4月1日の13時開始とか言う微妙な感じがなんか色々事情が滲み出そうな感。
今回の愚者は第二集。然しなんと本人不在。前回はジュエル兄さんが月虹書館で二次創作に励んでいましたが、今回は月虹書館と思われる場所は荒れ果て、多くの書が滅茶苦茶になっている様子。
「そこにかつての主の姿は無く
書は散乱し、頁は欠け、文字は塗りつぶされている」
そして語られる「主」らしき存在の台詞。
「存在すら虚構。ならばせめてこの手で葬り、二度と見出される事なきよう」
「価値無き、救いの手。愚者の足掻き。偽る朱の物語。その羅列、全ての虚構」
去年の「四月の愚者」を選択すると、ATSのタイトルが欠け、去年は無かった(よね?)語りが入ります。
これらの内容、去年の初配信時のイベントバナーが今年は少し掠れていて、更に第二集はもっと掠れている事から、月虹書館は最早滅びかけている、と言う事なのだと思われます。
「せめてこの手で葬り」と言う台詞を見る限り、ジュエル兄さんが自らを「愚者」と称し、朱の物語たちを――幸せな虚構の物語たちを滅ぼして仕舞おうとしている様に見えます。
(「書」を滅ぼして回る=エウレカ様の仕業、と言う可能性も棄てきれませんが…)
「本の中では偽りの幸福を生きて貰いたい」そう言っていた彼に一体どう言う変化が起きたのかは残念ながら知る事は出来ません。
ただ一つ確かなのは、今年新たに書棚に加わった「幸福な物語」の主人公たちだけではなく、去年「わたしたち」の入手した「幸福な物語」の主人公たちの書もまた、掠れ消えて仕舞いそうになっていると言う事。
バナーの掠れ、幸福な物語たちの掠れ。荒れ果てた月虹書館。偽りの書を葬ろうとする者。
これらの演出から考えてみたのが、これは「幸福な物語」の偽であると同時に、プレイヤーたちへのメッセージなのではないか、と言うのがわたしの思った結論です。
偽りの書たちが消える事=誰かに消される、或いは「わたしたち」の記憶から消えて仕舞う事。
彼らは偽りの物語の存在。著者である「者」がその消失を望めば、「わたしたち」の書棚、箱の中でさえも例外ではなく、「消えて」仕舞う。
ジグムントのシグムントと言う名への訂正など、誤字脱字の修正でさえも、ある意味では書の改竄。
「わたしたち」の手にあるものは、「著者」たちの心一つで簡単に消えて仕舞うものでしかない。書き換えられるも消えるも容易なものでしかないのだと言う現実。
噛み砕いて言えば、サーバに書き込まれたデータのひとつ。ロードラのサービスが終了して仕舞えば、データが壊れて仕舞えば、「この世界」でさえも瞬時にして消えて仕舞う不確かなものであると言う事。
今回の「掠れた愚者の物語」の表現は、そんな彼らを、彼らの物語を、ロードラと言うゲーム内の「書」だけの存在としてではなく、「わたしたち」プレイヤーや、誰かの、皆の心に留めて欲しいと言う願いの表現の一つなのではないでしょうか。
容易く「物語」が消える。荒れ果て、滅びる世界の具現。そんな、(創作を行っていた月虹書館の)愚者の滅びと言う「嘘」。
四月一日と言う「嘘」を通して、何かを「著者」たちは伝えて来たのかも知れません。
彼らを活かす事が出来るのは、「わたしたち」プレイヤーなのだと言う事実。
ロードラのプレイヤーさんたちが創作などを続ける事、キャラやストーリーを愛し続けていく事こそ「著者」たちの望みでしょう。
………もっと生臭く言えば、「彼らを活かすも殺すも皆さんの課金と愛次第」と言う直球なメッセージなのかも知れませんね。…なんて。
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「せめてこの手で」
それは果たして「誰」の手なのでしょうか…?